この記事は、どうやら2017年12月23日に最後に編集されたようで、ずーっと今まで下書きとして残っていました。
ここの中で、言い訳していたやつですね(笑)
つまり、このブログの最初のネタとして用意して書こうとしていたものです。
実はもうすでに何を書こうとしていたのかあまりよく覚えていないですが、このままお蔵入りさせてしまうのももったいないので、このタイトルから今の自分が感じることを書いてみようと思います。
客観的な真実の邪魔くささ
「客観的な真実」とは、簡単に言ってしまうといわゆる「正論」ってやつです。パッと見いい言葉のように見えますが、なぜか大抵の場合あまりよくない文脈で使われる言葉なのですよね。それはなぜかと言うと、正論を述べている人の頭の中に具体的な当事者がいないことが多いから。
おそらくこの記事を書こうとしてた頃は何かいい具体例が頭の中にあったのだと思いますが、今はちょっといい例が思い浮かばないので抽象的な表現になってしまいますが、何事にも「反論の余地がない」「突っ込みどころのない」「どのようなケースにでも適用できる」ような理屈が求められ、理論的におかしな部分があったりすると、そのケースに具体的に該当するようなモノ、ヒトなどがいない、または極少数であることが想定されたとしても、「もしそういうモノ、ヒトがいたらどうするんだ」といったようなクレームによって、例えば9割方の人は幸せになれるようなアイデアが潰されてしまったりします。
世の中の多くのことが、「最大公約数」からはみ出ることができなくなってきているのです。
これが、究極的には昨今よく言われている「テレビがつまらなくなっている」とか、「若者の車離れが起きている」とか、「子供がお年寄りに挨拶をされただけで通報されてしまう」とか、今日本で起きているあらゆる「ちょっと行きすぎじゃないか?」「単一志向過ぎないか?」というものに通じている気がします。
インターネット社会の宿命なのか
この記事の中でも少し触れていますが、インターネットが成熟したこの社会において、情報を手に入れること、そして自分の考えを広く発信することが非常に容易になったことで、例えば昔は何かクレームを伝えたかったとしても、営業時間の間にTELしなければ伝えられなかったり、ハガキで送らないといけない、そしてそこまでやったとしてもそれはある特定の人物や組織にしか伝えることができなかったようなことが、思い立った瞬間にSNSで全世界に発信できてしまうようになりました。
また、それが正論であればあるほど、発信した人の意図を超えて解釈が広がって、そのパッと見正論であるクレームに該当する当事者なんか実はほとんどいないようなものだったとしても、無視ができないような大きな声になってしまいます。正論なので、ヘタに反論してしまうと別のクレームに発展してしまう事態になりかねないので、よく考えてみると「これって被害者いるんだっけ?」「誰得?」というような話でも、従わざるを得ない。
日本はこのままでいいのだろうか
ちょっと具体性に欠けた内容になってしまっていますが、だいたいこのような考え方でこの記事を書き始めたんだろうな、と思います。
最近は、ようやく「過剰反応だ」とか「そんな声気にすることはない」といったような、比較的正しい声も勢力を持つようなケースが出てきているので、このままいい方向に向かっていけばいいななんて思ったりすることもありますが、昔と変わった今のこの環境下ではどういう状態がベターだとみなさんは思いますか?
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